そして、文化大革命へ

大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つける結果となりました。その責任を取る形で、1959年4月27日、毛沢東は国家主席の地位を劉少奇に譲ることになりました。同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られました。毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清します。廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していくことになりました。

ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれていきました。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下しました。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していきました。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されることにより、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていました。

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1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが発端となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こりました。過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こします。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持しました。8月5日、毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表、劉少奇打倒を示唆しました。8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てました。紅衛兵運動は全国の学生から、青年層へと拡大していきました。

このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられていきます。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていきました。

文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われることになり、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んでいきました。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害されました。また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展しました。。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われています。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されていき、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥ります。これを受けて1968年、毛沢東は学生たちの農村への下放(地方の農村で働き社会主義の思想を高めよ)を指示しました。

文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは党副主席兼国防部長の林彪と、毛の妻で党中央政治局委員の江青でした。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされましたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようと試みましたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡しました(林彪事件)。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えることになりました。

毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとの会談です。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げました。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれるほどでした。しかし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからです。

この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものでした。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していました。

その後、1972年にアメリカの同盟国である日本の内閣総理大臣田中角栄もニクソンのあとを追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立します。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間ではありましたが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれています。中華人民共和国も中華民国(台湾)も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶しました。

ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明しました。医師団が懸命の治療を行いましたが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていきました。1975年には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となりました。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなりました。その体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と、国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなりました。毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命。鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになりました。

鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしていましたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返しました。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていました。やがて毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになります。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させることになりました。周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅で、毛沢東は82歳で死去しました。毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結することになりました。

毛沢東の評価についてはいろいろ言われますが、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識です。例えば1989年の第二次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道がありました。

一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないのですが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど毛沢東の思想には警戒的ではないと言われています。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したことがそれを裏付ける結果となっています。

あれだけの文化大革命でたくさんの血が流れたのにも関わらず、未だに毛沢東詣でをする人が後を絶たないこの状況をみるとやはり中国は報道を統制している国家だな。と思います。

経済面でも毛沢東の死後、中国は改革開放によって経済が発展していきましたが、都市部とそうでない地方との格差が広がるばかりで、加えて所得格差の拡大に党幹部・官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていきました。そのような状況の中で、困窮に苦しむ人々が「毛沢東は平等社会を目指した」と信じて、毛の肖像や『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例が今でもあります。毛沢東、117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行っています。そして、今日も天安門広場では、「毛主席紀念堂内」へ行く人達が列をなしていることでしょう。

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