魯迅と日本とのつながり

有名な小説家、魯迅

「阿Q正伝」で有名ですよね?読んだことはなくても、タイトルだけは学校の教科書で見た記憶はありませんか?北京大学で教鞭をとっていたこともありました。とても日本に縁がある作家です。1881年9月25日 浙江省紹興市出身 本名は周樹人です。ペンネームの魯は母親の姓からとったそうです。弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)というので、優秀な兄弟ですね~

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代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。短編作である『狂人日記』は旧来の中国文学が文語主体な中で口語を主体とする点、被害妄想狂の心理を実にリアルに描写する点において画期的でした。、魯迅の中学校の時の良友に本物の迫害妄想患者が存在し、彼を観察したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われています。

魯迅は、日本との繋がりも強く、牛込の日本語学校・弘文学院にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学しています。その間日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会がありました。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、軍事スパイとして処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿がありました。その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだといいます。

当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許されていたので、魯迅は無試験で入学していますが、当時の医学専門学校は卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技で、魯迅のようにわずか1年7か月でドロップアウトすることも珍しくありませんでした。日本人学生でさえ入学者100名に対し卒業試験まで至る学生は50名に過ぎなかったほどなので、どれだけ難しかったか・・ということになりますね。『藤野先生』によると、初年度の試験で魯迅は百人中まんなかあたりなので、50番ぐらいでしょうか。落第はしないですみました。得点は六十だった、とあります。当時周には多額の奨学金が支給されていたので、夏目漱石など日本の小説の読書に熱中することができました。街で遊興に入り浸ることもあり、自身も「当時、私は一向に不勉強」と述べています。さらに二年度に進むと学年試験の成績について同級生から試験問題の漏洩を疑う不当なうわさばなしがありました。この疑いは晴れたものの、中国人留学生である自分の語学能力への差別感情を感じたようです。そのような状況下で中国人が処刑される情景に出会ったことが進路を考え直す契機となったに違いありません。

1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めることになりましたが、文筆は滞っていました。そこに友人の銭玄同(後の言語学者)に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えています。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか。」

これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、という意味です。それに対して友人は、「起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか」と反論しました。これがきっかけとなり、魯迅は最初の小説『狂人日記』を書きました。(『吶喊』自序)

帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表します。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化することになりました。

また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当しました。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのですが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなどして、実証的な基礎作業を進めていきました。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)です。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっています。

魯迅と仙台の繋がり

仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』があります。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことばです。その藤野との関係は、小説『藤野先生』に以下のように描かれています。

「私の講義、ノートが取れますか?」とかれは訊ねた。「どうにか」 「見せてごらん」  私は筆記したノートをさし出した。かれは受け取って、一両日して返してくれた。そして、今後は毎週持ってきて見せるようにと言った。持ち帰って開いてみて、私はびっくりした。同時にある種の困惑と感激に襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してあった。このことがかれの担任の骨学、血管学、神経学の授業全部にわたってつづけられた。-中略-

 だが、なぜか私は、今でもよくかれのことを思い出す。わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ。私はよく考える。かれが私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中国のためである。中国に新しい医学の生れることを期待したのだ。大きくいえば学術のためである。新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。私の眼から見て、また私の心において、かれは偉大な人格である。その姓名を知る人がよし少いにせよ。

魯迅「藤野先生, 訳文は竹内好訳『魯迅文集』第二巻

魯迅は、1904年(明治37年)9月から1906年(明治39年)3月までの約1年半しか仙台にいませでしたが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っています。 中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年(平成10年)11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問しています。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をするのがお約束です。その他にも、東北大学キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)があります。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されています。

2004年(平成16年)、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈りました。 ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更されました。

東北大学の創立100周年を記念して、魯迅と藤野厳九郎の胸像が仙台市内のキャンパスに設置されました。また、2011年(平成23年)7月19日、東北大学史料館に「魯迅記念展示室」が設置されています。

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